
歩みと近況、高瀬 義彦, History and Recent Updates, Yoshihiko Takase
高瀬:私は退職してからJICAのシニアボランティアに応募しまして、最初に行ったのがシリアでした。中東のアラブですね。なぜシリアに行ったのかと時々聞かれるんですが、特に縁があったわけではなくて(笑)。募集要項で『メカトロニクス』と書いてあったのがシリアとメキシコだったんです。それで応募用紙にその順番で書いたら、面接で『第一希望はシリアですか』と聞かれて、そのまま決まってしまいました。そこで初めてイスラム教の文化に接しましたが、日常生活ではそれほど違和感はありませんでした。ただ、地域差はかなりあって、私がいたのは大学だったので、特にリベラルな環境だったんだと思います。朝になるとお祈りを呼びかける放送が流れるんですが、それも1週間もすれば慣れましたね。
日本と違うなと強く感じたのは、国境の感覚です。ちょうど私が行った時、イラクからの難民が100万人ぐらい来ているから注意するように言われました。島国の日本では考えられませんが、向こうは地続きなので、何かあればすぐに隣の国へ移動するんです。受け入れる側も、当たり前という感じでした。
私がいた場所は、最近大きな地震があったトルコとの国境のすぐ近くで、地中海に面したとてもきれいな町でした。魚市場なんかもあるんですよ。日本人が来ていると知られているので、魚を買いに行くと『タコが入ったから買え!』なんて声をかけられたりね(笑)。地中海を回遊するマグロもいて、大きなものは日本に輸出するそうですが、小さいものは地元の魚市場に出ていました。
文化的にはイスラム教徒とキリスト教徒が共存していて、大学の先生にも両方いました。で、その後が大変で…本当に今のパレスチナのガザの状況とか、ああなるともう本当に大変ですね。理解も大変だし、実際に住んでる人も大変だと思うんですけど。まあ、パレスチナの難民もたくさんシリアに来てたわけです。で、それを援助するために、JICAのボランティアも行ってたんですね。だから、ロシアの侵略に比べると、パレスチナの報道に対しては、日本の報道もどっちかっていうとパレスチナ寄りみたいな報道が多いですね。どうしてか詳しいことは知らないんですけど、我々が行ってた頃から、おそらく、その当時のJICAの理事長、緒方貞子さんね、国連の職員だった有名な方でもあり、その方が理事長だったんです。それでグローバルな見識を持ってたからじゃないかなと、想像ですけどね。その当時からパレスチナの難民支援とか、よくやっていました。私は直接仕事には関係なかったんですが、同僚でシリアに行ってた若い人もいて、パレスチナ難民の学校で日本の歌を教えた、なんて話も聞いたことがあります。
2回目にパラグアイに行ったんですが、シリアから帰ってきたら丁度日本で大震災があったわけです。
司会:どっちの震災?東北?
高瀬:ええ、東北の大震災。2011年です。2009年にシリアから帰ってきて、2011年あたりにまたボランティアに応募しようかなと思ってたら、日本で大震災が起こってしまって。それが終わってからパラグアイに応募したんです。まあ、パラグアイにも同じメカトロニクスという分野があったから、という理由なんですけどね。メキシコとかパラグアイとか選択肢があって。
シリアでは内戦が起こったので、もうシニアボランティアは中止されて、今も誰も行っていません。パラグアイには結構行っています。そこで感じたのは、発展途上国といっても、向こうの大学も立派な研究をやっていて、中途半端な知識では立ち打ちできないレベルなんです。行く前にJICAの面接で『あなたが行くパラグアイの大学は、日本で言えば東大と同じですよ。できますか?』とまともに聞かれました(笑)。私にはアメリカに行った経験があったので『できると思います』と返事したんですが、実際は勉強しながらでしたね。我々電子工学は『弱電』ですけど、向こうでは『強電』のモーター制御をやってくれと言われて。強電のモーター制御なんてやったことないですから大変でした。まあ、なんとかやりましたけど、決して我々が上に立てるような状況ではない。向こうも努力してるんだなと思いました。あと、向こうはスペイン語の文化圏で、それがまたいいなと。割といい加減なこともありますが、住みやすかったです。大学の先生は時間もきっちりしていて、場所や職場によって違うんだなと感じました。
パラグアイから帰ってきてから、去年引っ越しました。千葉の茂原という小さな田舎町なんですが、安い一戸建ての物件があったので。庭というほどでもないですが地面があるので、放っておくと雑草だらけになるから、野菜でも植えてみようかと。それが新しい経験ですね。